幕末のエネルギーのかけら 佐賀

佐賀藩は幕末の雄藩の中では 異色の藩です。
尊皇攘夷の嵐が吹く中でも 自藩に引きこもり 脱藩者もわずかです。
幕末期の藩主(後に引退して藩主の父)は鍋島直正(閑叟>以下閑叟)で 藩士はこの主の言うことには 絶対服従だったようです。

鍋島藩は幕府から長崎警備の任をうけ この任の難しさから閑叟は 国防の重要さを痛感し 鍋島藩独自で軍の増強をはかり 閑叟は洋式軍備を積極的に取り入れます。

外国から武器を買うよりも 自藩で武器を製造することを考え 鍋島藩を近代的工業国に導きます。

このとき 莫大な資金が必要でしたが 領民の税の負担はかなりのものだったといわれていますが そこから佐賀の人の倹約癖が生まれ 後世佐賀人の節約家のエピソードが生まれたのだと思います。

鍋島閑叟は当初 幕府方 勤皇方 どちらにも属さず 中立を守っていましたが 鳥羽伏見の戦いで 薩長が優勢になるや否や 倒幕に転じ その後の上野戦争や 戊辰戦争などで 鍋島藩の最新式の大砲(アームストロング砲)や 命中率の高いエンフィールド銃(ライフル)など(いずれも自家製造)を使って 幕府時代の幕を引き 新しい時代を開いた功労者なのです。

どちらの味方につくのか はっきりしなかったのは 自己の利益の為ではなく この国にとって正しい方向を示してくれる勢力を 見極めていたのではないかと、思うのです。

鍋島藩の侍は どこの藩士よりも教養が高く 新しい学問を身につけており 明治維新になると その才能が開花して 新政府の高官として活躍した人物が多いのです。

他の藩出身の勤皇の志士は 下級武士出身のものが大半で 革命期には活躍しますが 新政府の実務になると いかんせん教養に乏しく 精彩を欠いていたのとは対照的です。

明治政府設立まもなくに起こった佐賀の乱で 有能な人材が亡くなっていますが それでも有能な人材は豊富でした。

現在の九州において 佐賀県人の評判は必ずしもよくなく 個性がないだとか 吝嗇(りんしょく>けちなこと)だとか言う人もいるけれど 私はかならずしもその評価は正しいとは思いません。

維新で血を流し この国のことを必死で考え 守ろうとした人達のことを考えると 何もしないで様子見をしていた他県のものは この地の人の正しい姿を見ていないのだと思います。

佐賀の県立本丸資料館は とても立派で素晴らしいもので 開館時間も長く しかも無料公開でした。
私は 佐賀藩の、おっと 佐賀県の 過去に対する誇りと心意気を 感じました。

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